茶屋の軒ばの花紅葉


見渡せば 茶屋の軒ばの 花紅葉 今日顔みせの 錦とぞ見る

という狂歌が書かれている、絵です。
喜多川歌麿の絵による『絵本駿河舞』(寛政二年)という本から。

「花紅葉」といいますから、今ごろの季節です。
「顔見せ」とはYahoo辞書(大辞泉)によると、
「歌舞伎年中行事の一。江戸時代、年一度の各座の俳優の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行。11月に行われ……」
絵を見ると、床の間の旦那さんの両脇に、役者風の二人がいます。
顔見せの芝居のあとで、贔屓の旦那を囲んでの御席のようです。
狂歌のほかに「芝居二丁まち」「酒楽斎瀧麿」と書いてあります。

なぜ11月かというと、年末に大きな芝居がよく興行されるからなのでしょうね。
最近でも毎年12月の初めに、必ずアルバムを発表してた歌手の人がいましたが、それと似ているわけなのでしょう。

そんなわけで、一年の区切りは、お正月とか、4月の新年度とか、いろいろありますが、11月の紅葉の季節というのも、いいかもしれませんね。
私のことでいえば、最初にFC2ブログを始めたのが、2004年11月でした。
そのほかプライベートなことで、何かあったかもしれませんね・・・^^;

男子から女子への輪廻転生の話

昔話で、人が生まれ変わる話……輪廻転生の話はよくあります。けれど、なぜか男子が女子に生まれ変わる話があったかどうか、あまり記憶にないのですが、それが不思議に思っていました。
最近『奇談雑史』という江戸時代の本で1つ見つけたので、あらすじではなく、その全体を現代語訳に書いてみました。ちくま学芸文庫の本からです。
『奇談雑史』巻六「高瀬氏の娘の事」という短い逸話です。

 伊勢神宮の外宮の神楽衆の一人に、高瀬宗太夫という者があり、妻との間に3人の男の子があった。のちに女の子1人が産まれ、「ゆき」と名付けられた。
 雪(ゆき)は、安永七年(1778)の秋、三歳のときに疱瘡を患った。母はそばで看病し、ある日、雪を抱きながら、ひとり言のように言った。
「雪よ。私の3人の子は皆男の子だったので、どうか1人の女の子が欲しいと神に祈って授かった子なのだから、どうかこの疱瘡を軽くしておくれ。お前が生まれる前、どこの国から来て私の子に生まれたのだろう」
 すると雪は、目を開いて母の顔を見つめ、「私は松阪より来ました。とゝさまの名は餅屋六兵衛、かゝさまはおもんと申します」と、はっきりした口調で言い、また目を閉じて眠った。
 母は驚き、側でこれを聞いた人も皆驚き、不思議がった。この話は人々の噂にものぼり、やがてその年も暮れた。
 年が明けて春、人伝てに話を聞いた松坂の六兵衛は、高瀬氏を尋ね来て、詳しい事情を語ってくれた。松阪黒田町で餅売りをいとなむ、名は赤塚六兵衛といい、男の子が一人あったが、松阪の大商人三井家に奉公に出たあと江戸の店に勤めていたが、疫病にかかって二十三歳で死んだ。この男の子は、常々「世にうらやましきは、伊勢の神楽衆なり。願はくは、未来その家に生れたきものなり」と言っていたという。その宿願が叶って、神楽衆高瀬宗太夫の家に生れたのだろうという。

幼くして、または若くして死んだ子は、どこか別の家の子として生まれ変わるものだと信じられていた時代です。看病しながら母が、この子は生まれる前はどこの国にいたのかしらと想像したというのは、このまま死ねば別の場所で生まれ変わることになって次はどこの国で生まれ変わるのだろうかとか、そうは思いたくないので、逆に、生まれる前のことを思い、思うだけでなく実際に口にしたのでしょう。何か呪文めいた、それを口にすることで病が軽くなるような、そういう効果を期待しての言葉と思います。むしろ、子どもの疱瘡のときは、どの親もそうしていたのかもしれません。将来の不安を口にすれば、それが現実のものになってしまいますから。ここまでの話は、世間によくあることだったのでしょう。
ところが病の雪は、突然目を開いて、松坂の餅屋六兵衛の子だったと、寝言とは思えないお告げのようなことを言います。そして餅屋六兵衛は実在の人で、息子を若くして亡くしたこともわかります。
その息子は、伊勢商人として江戸で働きづめで、23歳で亡くなったのですが、常日頃「伊勢の神楽衆はうらやましい。その家の子に生まれたいものだ」と言っていたそうです。

23歳は立派な青年ですが、そのくらいまでは、生まれ変わることもできたわけなのでしょう。
男の子ではなく女の子として生まれ変わったことに、何か意味があるのでしょうか。
当時の伊勢の神楽衆たちの中での、女性の役割というのは、調べてないのでわかりません。歌舞伎ではありませんので、女性も歌舞をしたとは思うのですけど……。

菊と野菊と源氏名と

江戸時代の明和のころの平賀源内の『菊の園』という本を見ると、日本橋芳町そのほか、源氏名というんでしょうか。「菊」の字が付く名前が多いです。
 菊松、亀菊、万菊、千菊、菊野、染菊、花菊、新菊、菊蔵、菊次郎……、白菊……。
なぜ菊という字が好まれたのかというと……(下ネタの話ではないのですね、これは)、
やはり、高貴な血筋であった昔の稚児物語の美少人たちの系譜を引いているからなのだろうと思います。秋夜長物語では宰相の家柄だとか、京都の物語だからそうなるのでしょうけれど、地方へ下って格が下がるとはいっても、地方なりの高貴な血筋というのもあるわけです。
こういうことは、木地師や琵琶法師の祖先が○○親王であるとかいう伝説とは別種のもので、宰相の家柄であったのは事実なのですね。
けれど、そういう最高の血筋とは違う庶民の場合は、菊は菊でも野菊。でも、野菊と菊がつながってしまうところに、菊の良さがあるのかもしれません。

月は女、花は若衆


『ねやのくすり』という江戸時代の本の言葉に、

「世上の花月といふは。女を月にたとへ、若衆を花になぞらへし也。」

春に花をめで、秋に月をめで、そんなところから風流なことを世間では「花月」というけれど、
たとえていうなら、月は女、花は若衆だというわけです。なぜかというと、花のほうが盛りが短いからです。

確かに盛りが短いのかもしれませんし、あるレベルを維持するのには、普段の努力が必要なのでしょうね。

あら、しらじらしや×婆娑羅かな



『稚児之草紙絵詞』の巻末の絵が、
『江戸の色道』(舜露庵主人)という本に
載っていましたが、
セリフ(詞書)の読み方が変に思いました。

学術研究のため、左に同書の挿絵と
その問題の読み方を掲げてみます。


> 僧「うまれてこのかた、見てしたる事はいまだ候わず。
>  よき癖と思し候。あわれ、おわそうかな」
> 童「あらしかじや、さに候いしや、いかなる御事と候ぞ」
>(同書より)

「おわそう」は変な言葉ですし、童のセリフは全体が意味不明。

以前、自分で読んで保存しておいたファイルを見てみました。セリフには「二」「一」と番号があり、一から順に読むわけです。
ベッドシーンの絵で、僧が大きな明るい燭台で照らしている絵です。
きちんと読めば、わかりにくい話ではありません。

一(稚児) あら、しらじらしや。さもしや。いかなる御事ぞ。
二(若僧) うまれてこのかた、見てしたる事はいまだ候はず。
  よきくせ(癖)とおぼえ候。あはれ、御はさら(婆娑羅)かな。

「しらじらし」は古語で、明るいという意味です。「婆娑羅」はいかにも寺院文書の言葉で、常識破りで新しい変わった趣向、といった意味でしょうか。現代風に言い替えてみると、次のようになりますが、これなら、明るい燭台の意味もわかるでしょう。

稚児「ちょっと明るすぎない? いやらしい。どういうことなの?」
若僧「見ながらするのは生れて初めて。クセになりそう。これがニュースタイルさ」

女が暗くしてといい、男が明るいところで見たいというのは、よくある食い違い。
『稚児之草紙』のあらすじの紹介は8月1日に書きました。

稚児之草紙

稚児之草紙『稚児之草紙』という絵巻物は、稲垣足穂の『少年愛の美学』という本でよく知られるようになったものと思います。トランスジェンダーだけでなく、男色やゲイ、ボーイズラブ(BL)の分野でも知られた文献ということになります。真言宗のお寺で保存された稚児の草紙の奥付には、元享元年(1321)とありますので、鎌倉時代末期という時代になります。
5つの逸話が書かれています。

第一段
仁和寺の高僧に寵愛される稚児が、最初の床入りのための準備をする話。「めのと子」という養育係の男に手伝わせ、張形も使うけれど、男の実際の物でも稽古します。現代的な意味での初体験の相手は、めのと子の男ということになりますが、そこは価値観の異なる時代の話です。秋夜長物語など他書の例によれば、稚児の床入りの年齢は十六歳です。
「めのと子」とは、通常の高貴な子なら乳母(めのと)に養育されるのですが、女人禁制の場所なので男子がそれに当たるのでしょう。
ローションとして丁字油を使ったといいます。丁字油は、フトモモ科の樹木である「丁字(チョウジ)」から採取される油で、刀の手入れなどにも使用されるらしいです。
いざ床入りの直前に、火鉢で稚児のお尻を温めるとか(画像参照)。

第二段
新かまの里で、心ざしの深い僧と稚児が、秋の夜に萱群の中で密会する話。毎夜のことになっても人に知られることがなかったのは、本尊の御助けによるものだといいます。
「心ざしの深い」とは、仏法への志、そして僧と稚児との愛情とが、合一されたものとしているようです。密会のような形でも本尊のお助けがあるというのは、そのためなのでしょう。親しい関係は生涯続いたといいます。

第三段
嵯峨の辺の高僧に寵愛されている稚児が、自分に深い思いの下級の僧がいることを知り、僧を呼んで湯に入る手伝いをさせたときに、その思いを受け入れる話。
本尊の話は出てきませんが、高貴な稚児は、下級の僧へ施しをするものだということでしょう。

第四段
法勝寺の高僧に寵愛される稚児が、自分への思いに痩せ衰える下級法師を呼んで、足を洗わせるときに、情けをかける話。他の下級の僧侶たちに対しても同様であったといいます。
趣旨は第三段と似ていますが、稚児からの施しは複数の僧に及びます。

第五段
北山の高僧が稚児を寵愛しすぎて、他の寺の僧はあまり立寄りにくくなっていたのでしたが、ある若い僧が稚児に思いを寄せ、稚児の寝室(塗籠)に潜みました。稚児はすぐに気付きましたが、驚くこともなく、物語りを諳誦しながら、外に気づかれぬように若僧をもてなしたという話。
物語とは、幼少の童を寝かせるために聞かせたのでしょう。このお寺ももう少し心を開くように、若い僧と稚児の心ざしがきっかけになったということなのかもしれません。高僧といえども一人の稚児を独占するのは好ましくないということでしょう。
五段の話とは別の絵がいくつかあり、詞書に「ばさら(ばさら」という言葉が使われているものがあります。
(「足穂版男色大鑑」付録の復刻絵巻「稚児草紙」等をそのまま通読してまとめました)
原文の 読下し・稚児之草子 も御覧下さい。

盆踊りと若衆

<江戸の十二ヶ月シリーズ>

江戸時代の西川祐信の挿絵と思われる『遊色絹篩』という本だと思いますが、盆踊りのことが書かれています。
日本の盆踊りは、若者が恋人を見つけるためのイベントでもあったのですが、盆踊りについては親も公認の行事だったというところがミソなわけです。
この本は艶本なので文章もそのような表現がありますが、こんな感じです。

「正月より盆がうれしいとは、いかにきつねが七匹つくとて踊に歩く事 親たちも許し給ふ。なんの踊りが面白かろぞ、ほれたといふた男と連れ立つて歩き、夜明くるまでどこでもかしこでも宿も定めぬ軒の下、又は小宿の店の間の蚊帳のあちらで一踊り、声のかれるほどよがり、男の舌のひりつくまで口をすい、此思ひでをうつそりとしらぬ親たち、聞かれたら手をうたるるでござろふ。とかく踊りは四つすぎからと、出立つた姿も若衆のしりからも又して見さんせ。あすの夜は、はな紙たんと入て出ませふ。」

恋人とは、生物学的な異性に限らないようですね。

森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』にも盆踊りのことが書かれています。

「これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆 頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。」

梅雨の季節にしっぽりと

<江戸の十二ヶ月シリーズ>です。

梅雨の季節は、ときどき土の上に、もっこりと、モグラが顔を出したときの盛り上がった土を見つけることがあります。
江戸時代にも、こんな川柳があります……。

 入梅や 下からむぐむぐ むぐらもち

「むぐらもち」とはモグラのことです。
情景をそのまま言葉にしただけのように見えると、そんなに面白みがないかもしれません。
奥村政信『粟島ひながた染』(元文(1736〜)頃)に載っていて、どうやら艶っぽい川柳のようなのです。
梅雨入りのように、しっぽりとしていると、なぜか下からむぐむぐと……。普通の女と思ったら、違ったというような意味のようです。

「ひされ野郎」は誤読です

ひまな江戸時代の『諸遊芥子鹿子』という本が昭和20年代(1952)に活字化(岡田甫:著)されたことがありますが、(原本には)次のような文があります。

「とてもに聞たし、はやり子には朝夕の膳部もさまざまととのへてすへそなへ、ひまな野郎には朔日にも鯰をすへぬといふがいかに」

当時のかげま茶屋などの話で、「流行り子」と「ひまな野郎」とでは、普段の食事の待遇まで違うといいますが、どうなんですか?、といった意味。
昼間は芝居を勤めるのが仕事の人たちですから、スターとそうでない者との待遇に差があるのは、特に芸能関係では致し方のないところでしょう。

「流行り」と「ひまな」の対比ですし、間違う可能性は低いと思うのですが、前述の活字本では「ひまな野郎」を「ひされ野郎」と誤読した箇所があります。原本は図のように「飛万那(ひまな)」を崩した変体仮名で書かれています。
江戸時代にはなかった言葉と思われる「ひされ野郎」が、一部のネットなどで流布してしまっているようですね。

ついでに、もう一つ。天保のころの『天野浮橋』という本の中の、歌菊というかげまのセリフに
「先を考へてみれば、心細いもので、親兄弟は上方にて十三の年わかれ、下りしより音も便りもなし」
とありますが、「親兄弟」を「親けん方(親眷方?)」と読んで変な造語を作るのも変でしょう。

★林美一編集「季刊会本研究9」(昭和56)を拝見する機会がありましたが、間違いなく「ひまな野郎」となっていました。林氏の著作はどれも信頼度の高いものです(2012.9.27)

柳腰から「むっちり」へ

柳腰から「むっちり」へ
江戸時代の初期の浮世絵美人といえば、切手でも有名な菱川師宣の「見返り美人」など、ほっそりした柳腰の美人が多かったそうです。江戸中期にさしかかる元禄のころになって、京都の西川祐信らの丸っこいふっくらした絵になって行きます。
江戸初期は戦国の遺風がのこっていて武士の好みは小姓のような細面、細腰だったのが、だんだん内向きになってお家断絶だけは避けたいと、健康な子孫ができるように、安産型のふっくらした女性を好むようになったのだろうとか、それを庶民が真似るようになったのだろうと、稲垣史生氏が書いていました。
ただ、江戸初期は新田開発と多産の時代であり、中期以後は乱開発をやめて産児制限の時代になったという一見矛盾する現象もあります。

さて元禄のころ水木竹十郎という役者は女形としては人気が出ずに立役に転向したという話があり、人気の出なかった理由について、土屋恵一郎『元禄俳優伝』に当時の評判が引用されていました。
 「葉もなき柳を見るここち。ほっそり過ぎて一倍御背高う見ゆる
  背のびしを縮め、むっちりと肥え給はば思ふ事はあるまい。かなはぬ浮世なり」
ということで、背が高く、やせすぎてふっくらした感じがないというのは、わかりやすい理由ですね。
代わって人気女形になった吉沢あやめは、男子としては小柄で、「むっちり」していたそうです。

江戸後期の寛政のころは、喜多川歌麿の絵のように、細面だけれど柔らかい感じの美人になります。少しだけむっちり感もあります。
師宣や歌麿は関東の人なので、細おもては関東好みと見ることもできるかもしれませんし、江戸後期は庶民もぜいたくになって太った人が増え、歌麿のような細い美人に憧れたのかも?

あやめ草2
「若女形といふものは浮気な恋、色道根本といふはこのあやめさんの思ひ入れ」
「思ひ入れとは直接の官能によって女を表現するのではなく、恋の目つき、言葉、仕種のなかの恋の深さによって、女の官能を表現することである。」(土屋恵一郎『元禄俳優伝』)

「思い入れ」が大事だという話なのですが、「思い入れ」とは
  目つき、言葉、しぐさ、
で表現するということだそうです。

自分のことを振り返ってみると、
「しぐさ」については少し気をつけてます。少しですがブログにも書いたことがあります。
「言葉」については、私はこだわりがあるほうかも。文章言葉については、それなりに極めてるようにも言われたこともあります。ブログでは、具体的にこういう言葉が綺麗とか、ハウツー的なことは書いたことはなかったです。
「目つき」は、あまり意識したはことないですね。女子特有の目つきですか。ぼんやり遠くを夢見てるとか、落ち着きのないような恥ぢらいとか?

あやめ草

元禄時代の女形スター、芳沢あやめのインタビュー記事が、岩波文庫『役者論語』という本に載っています。「あやめ草」というタイトルです。

「女形は色が元なり」「平生を をなご(女子)にてくらさねば」というのは、有名な言葉です。

芸事についても、さまざま語られ、相手の役者についてですが
「下手を相手に取りたる時、その下手を上手に見する様にするが、芸者のたしなみなり」
これはなかなか高度な話ですね。「芸者」とは芸の達者な人という意味なんでしょうけど。
芸事のお話が多いですが、最後に「若女形」という言葉が出てきます。

「女形といふもの、たとへ四十過ぎても若女形といふ名有り、ただ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそはりたるにて、花やかなる心の抜けぬやうにすべし、わづかなる事ながらこの若といふ字、女形の大事の文字と心得よ」

四十過ぎても若女形。なかなか勇気づけられる有難いお話ですね〜♪。
「若」のイメージで生きること。新鮮さを失わず、いつも輝いていられるように……ということですね。
若衆の「若」も、同じような意味なんでしょう。

Gスポットの発見?

といっても日本の江戸時代のいわゆる衆道物の本からの話です。
『通俗堪麁軍談 巻十』安政3年(1856) という本のことが、『江戸の色道(上)』(舜露庵主人:著)に載っています。

吉原通いを満喫しているような男が、所を変えて「かげま」相手に、「例ふるものなき無量の美快」を体験する話です。
その最中に男は「穴中のしかけをとくと考ふるに、穴の底に"くくりめ"とおぼしき所あるといへども、子宮のごとくかたからず」と述べています。

「くくりめ」とは、そのまま「括り目」と読めば、少しすぼまっているような状態をいうのでしょうけれど、「子宮のごとく堅からず」といい、子宮と比較しています。そうすると、子宮と似たような上部の位置でそれほど堅くなくて、それでも他の柔らかい部分とは明らかに異なる刺激を感じさせたものとは……?、やはりそれは、Gスポット(前立腺)ということになりますね。「衆道全盛時代」ともいわれる江戸時代のことですから、Gスポットの発見くらいは、当然のことのように思います。女色については、あまり読んでいないので、わかりません。

まことある恋

 江戸時代の物語のあらすじです。
奈良の春日屋という大店の息子の鹿之介は、若いのに、かげま狂いとなり、いつしか難波の三保木という太夫と深く馴染みとなって年月を送っていた。三保木の年季が終わったあとも、二人は永遠の誓いを立て、いっそう深く親しみ、鹿之介は三保木の親の暮らしまで助けた。
しかし鹿之介は、使い込みを父に知られて勘当となり、やむなく江戸へ旅立とうとするとき、三保木に暇乞いに出向いた。三保木は日々の愛とやさしさへの感謝を述べ、早まった気を起こすなと鹿之介をいさめる。
三保木も江戸へ行き、寺や遊里を渡り歩いて働き、鹿之介を支え続けた。
そのことが、奈良の父の耳に入ると、父は、そのような職の者は金を取るだけ取って客に金がなくなると相手にもしなくなるものであるのに、立派な人間に違いないと、息子の勘当を解いて三保木まで「弟分」として養子に迎えた。二人はよく働き、三保木の「やさしき心より、固き親仁様の心までやはらぎたる」といい、義父への孝行もよくし、客の誰からもほめられ、店は大繁盛したという。

……いい話ですね。
こんなにいい男なら、どんどん貢いであげたいですが、でも最初は鹿之介のほうから貢いでくれて、勘当になってから、お返しとして男へ貢いだのです。最初にそれだけのお金が自由にできたということですよね、鹿之介は。

三保木は「弟分」となったのですが、その後の二人の関係が、よくわからないのです。店の経営については、兄弟経営なののか、それとも夫婦的な経営になったのか、江戸時代は道楽息子があとを継ぐことはほとんどなく、たいてい養子をとるらしいですけど……、それはともかく、「弟分」となったあとで、さらに「やさしき心より、固き親仁様の心までやはらぎたる」ということが強調されているのです。なので、かげまのようなトランスジェンダーとして夫婦的な関係だったと期待したいところです。そしてこういう話はたいてい、実話を元にしたものが多いらしいのです。

『まことある恋』(『男色山路の露』より)という話です。この話の内容は挿絵の印象と違います。

サクラ、さくら

芝居などで客席に内輪の応援団を内緒で置いて、さも盛り上がっているように煽るような人たちのことを、なぜサクラと言うのでしょう。
ネットではいろんな説があるようです。露天商のサクラはパッと散るようにいなくなるからというのがありますが、芝居では途中でぞろぞろ帰ってしまったら逆効果です。芝居の桜席という席に座る人たちにそういう人が多かったからという説。桜席とは、客席のいちばん端っこで、角度は見づらいけど舞台と同じ高さで幕の裏までよく見えるそうです。それから、葬式の泣女(なきめ)と同じようなものという説もありましたが、そうするとサクラは泣き役ではなく笑い役ということになります。初期の歌舞伎は狂言芝居ともいって短い寸劇のような笑いが主体のものだったらしいですから、さもありなん?。

「咲」という漢字は、「笑う」という意味で、本来は花が開くという意味はないとのことですが、日本でいつの時代から「花がさく」という意味になったのでしょう。

馬肉をサクラというのはなぜかについても諸説あります。花札の紅葉の絵には鹿が描かれているので、桜の札にも馬が描かれているかと思ったら、描かれていません。幕が描かれているだけです。この桜の幕は何のための幕なのかというと、江戸時代の初めに上野の寛永寺の境内に植えたときに幕を張ったそうで、それ以来幕がつきものみたいです。つまり神聖な場所と見物席を区分けするための幕なのでしょう。しめ縄みたいなもので、桜はやっぱり神聖なものなんでしょうね。
……今日はネットで見たことの受け売りばかりですね。

さて「梅色夜話」というBL的な視点のサイトがありましたが、タイトルが洒落てて良いと思いました。『男色山路露』の序文で「花といへば桜に限り、色といへば女にかぎると、一図になづみたるは、一等向上の一路をしらぬから也」というふうに「桜=女色」とみなして梅の良さを述べたことからの命名なのでしょう。
でも、おかま、トランスジェンダー系としては、桜の派手さや、笑いやインチキ臭ささ、それから季節柄などからして、いちばん好ましい花ではないかと思います。

稚児桜

春です。
今年の冬は寒い日が多かったせいか、春の訪れも遠慮がちです。
冬のお肌のトラブルについては、去年とくらべて今年はだいぶ良い感じ。部屋を暖かくしたり、それからあまり色っぽくありませんがなるべく厚着をして暖かく過ごすとか、そういうことに気をつけてました。

稚児桜(ちござくら)という桜があるそうです。山桜の一種で、小さい花がたくさん咲くらしいです。「児桜」と書くこともあります。芭蕉の句にもありました。

 植うること子のごとくせよ児桜  芭蕉

山から運んで自分の庭に植えるわけですね。植えたあともずっと手をかけることが必要です。男が自分の近くに植える花は、恋人のたとえなのですが、「子」というのも恋人のことですから、とてもわかりやすい句のように見えます。でもちょっと、ひねりが足りないような……?、そんなことはありませんね。普通の桜ではなく「児桜」なのですから、そういう意味を隠しています。
同じ時期の作かどうかわかりませんが、こういう句もあります。

 子に飽くと申す人には花もなし  芭蕉

人の世の浮き沈みというか、逢うは別れの始めなんていう人もいますが、この道に関しては、そういうものではなかったようですね。芭蕉の時代は、まだ武士道的な稚児観がありましたから、飽きたとか、心変りなんていったら、武士なら切腹もの。庶民なら「花もなし」で済むわけなのでしょうか。
(写真は稚児桜ではありません)

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